人の輪をつなげて、広げていく「平日サラリーマンのカレー」はひと味違う ——「Sho Curry」Shoさんインタビュー
Shoさんとのインタビュー新大久保で行いました。待ち合わせはネパール料理店で、その後バングラデシュ食材の販売店にも一緒にめぐりました。訪れたどちらの店でも、現地出身のスタッフさんたちと親しく交流していたのが印象的でした。「新大久保への愛を背負ってカレーを作っている」という言葉の裏にある、カレーや料理への思いについて語っていただきました。

スパイスカレーブーム黎明期の大阪で洗礼を浴びる

カレーとの出会いは、どんな形でしたか?

2014年から間借りでカレーを出す店をやってます。その前の「自分とカレーとの出会い」というと、大阪のバーで出会ったカレーがきっかけです。

前は大阪に住んでいて、ピートの香りが強いアイラウイスキーを専門に出す、癖の強いバーに通っていました。

ある日、そのバーがカレーを出し始めたんです。スパイスカレーの「鯖キーマ」。食べてみて衝撃を受けました。日本でこんな料理を食べられるのかと。

自分は小学校3年生から中学を卒業するまでマレーシアと香港に住んでいました。親が海外が好きで、現地のローカルフードを食べる機会が多く、舌が慣れていました。日本に帰ってからはそうした味から遠ざかっていましたが、突然、現地で食べたような味に出会って、フラッシュバックを感じるような衝撃を受けたんです。

Sho CurryのShoくん

アジアのスパイスカレーに突然再会した訳ですね。

はい。当時の大阪はヤドカリ(間借り)ブームの時期でした。今では有名になった店が、間借りでやっていました。そのブームの中で、個性的なスパイスカレーの店が爆発的に増えてきました。胃袋が熱くなるような辛さの、手で食べるカレーも体験しました。そんな食の体験から、総合的にハマっていきました。

料理するのはもともと好きでした。新卒で入社した名古屋の会社から大阪にある会社に転職し、寮に入りました。

毎週東京に出張があったので、新幹線で大阪に戻る前にいつも上野アメ横の「大津屋」に行ってスパイスを買い込んでいました。寮ではトイレの隣にシンクがあって、そこで毎週末、勝手にカレーを作り始めました。完成したカレーを寮の仲間に食べてもらう。そこに純粋な喜びを感じるようになりました。

作ったカレーをなじみの飲食店に持って行って、味を確かめてもらったりもしました。今思い返すと、お店にとってはちょっと嫌な客だったかもしれませんね(笑)。そんな形でどんどん人の輪が広がっていきました。

東京で間借りカレー店のスタート

カレーの試行錯誤をしていた時期だったのですね。

その頃は、ASEAN諸国やインドでの仕事も増え、年に何回かインドに出張に行ったりしていました。同僚はホテルの料理を食べていたのですが、僕は現地の空気を感じたくて、朝早くから起きて市場にいって、その場で現地の料理を食べていろいろな料理を体験していました。

その後東京に転勤して、週末には高田馬場の無国籍料理の店で無給で働き始めました。東京出身なので、凱旋した気分でしたね。

「新しい、自分の趣味を反映したカレーを店で出したい。無給でいいから働かせてくれ」そう言って、毎週土曜日に店に行きました。平日は会社だからほぼ休みなしです。

Sho CurryのShoくん

平日は会社で週末はカレー。大変ですね。

それも、始めたばかりの頃は1回に5人分とか、すごく少量しか作れなかったんです。そのうち、お店のレギュラーメニューに自分のカレーを入れてもらえるようになりました。

もっとも出来が悪い時には店主に手を加えられたりもして、悔しい気持ちになったことを覚えています。金曜の晩に二日酔いで仕込んだカレーをこてんぱんに言われたこともありました。それからは、週末店をやるときは絶対飲まないと決めました。奮起して頑張っているうちに、自分のカレーを目当てに予約が入るようにもなり。常連も増えてきて楽しくなってきました。

そうこうしているうちに「対外試合」をしたくなるんです。まず当時住んでいた清澄白河で自分の交友範囲を広げていって、高円寺の立ち飲み屋や、渋谷のバーへ誘われて不定期でカレー出店をするようになりました。そのうち、飲み歩いてできた人と人の「つながり」だけで、どんどん新しい出店の場が見つかるようになりました。

行動範囲を広げて、人の輪も広げていった形ですね。

お店を構えて常連をつくるのも良いことですが、自分の場合、そうではなくいろいろな所に出店していきました。ミュージシャンのツアーみたいなもので、お客さんも一緒についてきてくれるし、別の地域のお客さん同士で新しい繋がりができたりもするんです。

やっていて面白かったのはコラボレーションですね。ジャンルはなにか、出身国はどこか、実店舗なのか間借りなのか、そうした垣根をこえたコラボレーションが刺激になります。例えば、高円寺でスリランカカレーを出す間借りカレー店の方とのコラボでは、僕の方がスリランカカレーを作り、相手はベンガル料理をつくる企画をやったりしました。

Sho CurryのShoくん

カレーを通じてイベントを多数企画

カレーを出すだけではなく、イベントの企画もしたのですね。

「歌舞伎町カレー死亡遊戯」というイベントも記憶に残るものです。歌舞伎町の風鈴会館の裏にプチプラザというビルがあって、そこのバーの人たちと仲良くなって。そこで、歌舞伎町の悪いイメージを払拭したいという気持ちから、ビルのテナントを巻き込んでイベントをやったんです。企画の名前は、ブルース・リー主演の「死亡遊戯」という映画からヒントをもらいました。ビルの1階から3階まで、いろいろな店で食べ歩きができるイベントでした。

そのほかにも、志村けんさんの追悼イベントをやったりもしました。この時のメニューにはドリフターズに由来するネタを入れ、イベントの収益は志村さんの出身地の東村山市に寄付しました。

特に印象に残るイベントはありますか?

初めてキッチンカーを借りて、中野の公演でハワイアンイベントに誘われた時のことは強烈な思い出です。来客が3000人規模のイベントで、インド人の友達を3人連れて、500人分のカレーを仕込んで行きました。でも行ってみると、周りはプロのキッチンカーばかり。それで200人前ぐらいしか出なくて。大きな寸胴のカレーが半分以上余ってしまい(笑)。

そんなふうに人と交流できるようになったのは、カレーという武器を得たからこそです。学生の頃にやっていたのはブレイクダンスと格闘技とかで、その後社会人になってからは平日は仕事で、週末は酒をずっと飲み続けてというクズみたいな日々。そんな生活から救ってくれたのがカレーです。

新大久保は日本の中の異国のようなところで、買い出しにも便利です。ここに住んでから、間借り活動がさらに活発になりました。地元の情報をSNSで発信すると興味を持ってもらえる人が増える、そんな良い循環が生まれました。

Sho Curry Shoくん

新大久保への愛を背負って届ける「食べにくいカレー」

カレー作りではどんな工夫をしていますか?

新大久保界隈を歩いていてインスピレーションを得ることが多いですね。各国の現地食材が手に入るお店を回って、食材・調味料をチェックして「これ、カレーに使えるな」って思って取り入れます。

今回冷凍で販売するカレーは、「自分の素のカレー」です。骨付きマトンカレーで、よそでは食べられないようなもの。普段は食べないようなカレーを食べてほしい。そう思って、新大久保への愛を背負って(笑)、作っています。

すごく辛いカレーです。キャッチコピーは「食べにくいカレー」
非日常的なカレーです。固めの骨付きマトンにかぶりつき、辛さで汗をかきながら食べていただきたいです。ネパールとかバングラデシュの安食堂で出てくるような素朴なカレーをイメージしました。

自分は町中華や赤ちょうちんも好きなんですが、ネパールやバングラデシュの食堂の味はそこに通じるものがあります。シンプルで無骨、素朴な味に惹かれるんです。

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Sho Curry